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2012年04月14日

映画「悪人」感想 (星4つ★★★★☆ そこそこネタバレあり)

・もちろんいつだって世界は相対的で、何が悪であるかなんて定義だとか視点だとかで変わっちゃって、「相対化できない悪もある」とか「正義の反対は悪ではなくて別の正義だ」とかそれこそ正しいような正しくないようなフレーズが飛び交う中、それでも「少なくとも私にとってはこれは悪だ」くらいのことしか言えなくなっちゃうのは悲しいことなのだ。

・悪人の定義とは何か。殺人者、自分の自己満足のために殺人者を自首させない女、当事者でありながら他人事を貫き遺族を嗤う者、報道を錦の御旗にして鈍感さを恥じないメディア、復讐を試みる遺族、殺人者の家族と思われたくない別の遺族、老人を騙してカネをせしめる詐欺師集団。自己中心性がもしも悪人の定義なら、誰だって悪人と呼ばれるに値してしまう。遺族に優しい言葉をかけるバスの運転手だって、自分のヒロイズムで遺族の心情を勝手に推測して声をかけているのだ。

・しかしそんな悪人定義には人は納得しない。そういった相対化を経た後、それでも許せる悪と許せない悪の線を引く。それは法や常識やモラルで個々人で勝手に線を引いている。法が規定する善悪はもちろん、立法時には常識的な善悪と一致している。しかしそのことと法で裁けない悪が存在することはリバタリアン以外には自明で無矛盾なのだ。映画の中では、原作者が「これこそが悪だ」と言ってやりたいのであろう人間が描かれる。自分は大切なものを持たず、故に自由で手段を選ばず、物事に際して傍観者で俯瞰者で、自分が関わっているのに他人事のように接し、喪失に泣く人間を嗤う人間のことだ。

・嗤いはいつだって、メタ的な視点からしか起こらない。他人事でないことを他人事のように語る人間は、僕には悪だとは言い切れないが、しかし無責任ではあり、その無責任さを糊塗するように嗤いが生じるなら、それは軽蔑されるべきなのだ。そう、何でも持っている人間が持ち合わせず、何も持っていない人間が持っているものがある。当事者性であり、愛だ。

・主人公の殺人者は、自分のことを軽蔑して、そんな自分の傍にいてくれる女を愛する共依存性を持ちつつ、それでも「自分のことを諦めさせる」という選択ができる真正さを持っていた。僕はここに親鸞の「悪人正機」の正しい文脈を見出す。悪を自覚しないメタ的な「善人」より、自分の悪性を確信している「悪人」の方がずっと真っ当なのだ。それは悪だとしても「真っ当な悪」で、善悪ではなく真っ当さこそ、本来の判断基準たるべきだと僕は思う。

・法以前に僕たちは当事者で、そのことは弱さでも強さでもある。嗤う人間の弱さより、当事者の弱さの方がはるかにまともなのだ。


・尊敬する前田有一の批評の一部を挙げておく。
出会い系サイトなんぞで出会った初対面の男に抱かれ、その告白を受け止めて逃げようとする。この女性の心理に私は強く興味を持った。

彼女は典型的な「尽くす女」だ。現状に満足しておらず、自分と社会のつながりを感じられず、強い孤独を感じている。そんな自分が、この男のためなら役に立てる、必要とされている。その一点、わずかな一点の喜び、幸福感のため、彼女は安定した暮らしも家族も、人間関係もすべて捨てて、反社会の闇へと身を投じるのだ。それも即座に決断して。

これほどの孤独、寂しさ、切なさを感じさせる物語があるだろうか。出会い系サイトという、近寄ったこともない人には単なる無機質でいかがわしい媒体を持ってきたところがまたうまい。だがその実態は、おかしな連中に交じり、この映画に出てくるような寂しい人々、心の優しい女性が大勢さまよっている。日々、多くのドラマが繰り広げられているわけだ。

このストーリーを突飛と感じたり、非現実的とみるような人にこの映画は向いていない。そういう人は、まだまだ本当の孤独を知らない幸せな人だ。ヒロインは、妻夫木聡がイケメンだったからついて行ったわけではもちろんない。

この女性の心を主人公は瞬く間に理解する。なぜなら彼も、彼女と同じタイプの人間だから。
・そのとおり、このストーリーは突飛ではない。「地元」に縛り付けられ、ルーチン化した毎日で希望をすり減らしながら、50〜60年代的なかつての映画であれば目指された非日常・逸脱・生まれ変わりとしての「新天地」は最早東京ではなく、出会い系というバーチャルな空間だった。そういった心の空隙を抱えた男女が求め合うこと自体はチープですらある。しかし、その先、出会い系から愛の逃避行への短絡もまた、「分かってしまう」人には全然突飛ではないのだ。むしろそれこそがリアリティーを持って感じられるだろう。

・主人公が幼いころに見た希望の象徴としての光を放つ灯台は、結局母の帰りをもたらさなかった。後に追われる者となった殺人者と女は今度は灯台(仮初の「ホーム」)に立てこもるが、灯台は照らすものであっても照らされるものではないし、最早光を放つことさえできなくなっていた。殺人者が逮捕されてしばらくたてば記憶も感情も曖昧になり、女は悪人が何なのかも分からないし殺人者が悪人なのかも分からなくなる。しかし彼女の脳裏に残るのは灯台から見た朝日。それは新しい、彼女だけの灯台なのだ。
posted by あゆ at 20:45| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
悪人正機で プログ検索中です
善悪の判断の違いの人がいる
その 善悪の因果が 未来になる
悪いことの結果が 恐ろしい。
BATIとはあるのだろうか?
宗教研究会(名前検討中
こちらの 悪人という映画まだみていません映画同行会(名前検討中
Posted by 村石太ガールツエンティースリー&アニメーター at 2012年04月20日 22:03
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