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2011年02月28日

2011年02月27日のつぶやき

ha_na_bi_ 森美術館でやってる小谷元彦 「幽体の知覚」展を最終日の今日行ってきたんだけど、本当に素晴らしかった。そして最終日に行ったことを強く後悔した。もう少し前に行けばフォロワーやマイミクの皆に伝えられたのに…。もし今後小谷元彦の作品展があったら是非皆さん行ってください。 at 02/27 21:32

ha_na_bi_ 芸術と言っても大抵のことはやりつくされてて、新しい技術やメディアを使った芸術も、何個か展覧会に行けば見たことがないものでも既視感を感じだす。つまり、「こういうのできそうだよね」という予想の範囲内に収まってしまうのだ。「ツールが想像力を生み出す」のは確かだが、二次的だと考えるべき。 at 02/27 21:40

ha_na_bi_ 文化庁メディア芸術祭やオペラシティ「オープン・スペース 2010 」展(今日まで)でネットでも評価されていたクワクボリョウタ「10番目の感傷(点・線・面)」や、先の小谷元彦の作品のように、既存の技術でもまだできることがある。そしてむしろそちらの方が面白い。刺激する、正しく芸術。 at 02/27 21:47
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2011年02月27日

2011年02月26日のつぶやき

ha_na_bi_ プレミアムなのにニコ生満員で追い出された! at 02/26 15:04

ha_na_bi_ 「グズ」に関するツイートを見たので僕もつぶやいてみる。S・ロバーツの『「グズ病」が完全に治る本』がおススメ。かつてコンビニで買えた幻のグズバイブルで、当然僕も持っています。読まずに時が熟すのを待っているところで、この本のすごさは、読み出した段階で既にグズが直っているという点です。 at 02/26 23:20
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2011年02月26日

2011年02月25日のつぶやき

ha_na_bi_ 「宇宙戦艦ヤマト」がアメリカで実写化されるらしい。しかも2chでは「アニメを実写化するな」とか「キムタクェ…」とか「脚本は監督は俳優は…」とか話してる。違うだろ、「戦艦大和」に対する日本人のナイーブな距離感を無視して、対戦国のアメリカが単なるSF娯楽にしてしまうことにまず怒れよ。 at 02/25 18:11

ha_na_bi_ うおおおおおお 最強パレパレード! http://nico.ms/lv40977726#24:32 #momoclo #SKC at 02/25 19:24

ha_na_bi_ ももクロとかまってちゃんのファン層は重なっているのか。…両方知ってさえいれば全然重なりそうだw http://nico.ms/lv40977726#37:29 #momoclo #SKC at 02/25 19:37

ha_na_bi_ ミライボウルきたわあ。大好き。 http://nico.ms/lv40977726#40:06 #momoclo #SKC at 02/25 19:40

ha_na_bi_ 可愛すぎだろ名前分からないけど!これに加えてかまってちゃんって行きたかったなあ。 http://nico.ms/lv40977726#53:19 #momoclo #SKC at 02/25 19:53

ha_na_bi_ 「ギターがマミられた」ww http://nico.ms/lv40977726#2:21:13 #momoclo #SKC at 02/25 21:21

ha_na_bi_ 中枢権力不在の動物的個人主義から、人々の(ムラ)ネットワークへ。一周ですな。:アルゴリズムにしがみつくGoogleは明日の検索でピープルパワーのFacebookに負ける http://t.co/9vEuA0u at 02/25 22:02

ha_na_bi_ といっても、ともにコントロール可能だ。動物を支配するのはアーキテクチャ(自覚されぬ環境、アルゴリズム)だが、工学的解析で先取りできる。一方人間のネットワークは社会心理学的解析によって先導・扇動可能だ。良し悪しがあるだけ。ようやく保守主義に時代が追いついてきた感がある…。 at 02/25 22:13
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2011年02月24日

2011年02月23日のつぶやき

ha_na_bi_ 衆議院議員会館にて内田樹の講演を聞く。最近は経済学や民主主義2.0やITみたいな「中間集団省略して集合知で万々歳」系ばかりに触れて辟易してたので、すげーいい思考の洗濯。結論を言えば、「一部の国民が持つ、共同体存続を自己利益より優先する公民としての知性と倫理性を信頼しろ」ってこと。 at 02/23 13:52

ha_na_bi_ ここでいう「公民」は、既にある身体性や生活実感に沿って、共同体が継続してきたものを「あえて」「やせ我慢的に」守る人。少し高くても自国の食料品を買ったり、自国の木を使って自国の構法で家を建てる。私財を公共のために投げうつ。リベラル市民の「多様性」とかぶる場合もあるが基本的に別物。 at 02/23 14:11
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2011年02月23日

2011年02月22日のつぶやき

ha_na_bi_ …という一連のツイートを見て最先端のリベラリズムはどんどん普通に保守主義化していると思うのだった。 at 02/22 03:11

ha_na_bi_ 「合理的で自律的な個人が理性的・客観的に対話する」のがリベラル(モダン)、「半合理的で半自律的な半個人が半理性的に共同主観で井戸端会議する」のがプレモダン通常形態、「感情的、無意識的、祝祭的に溶解しあう」のが動物(ポストモダンやプレモダン祝祭形態)、これらを統一するのが保守主義。 at 02/22 03:18

ha_na_bi_ ポストモダンには先の個人が融解した祝祭形態以外に、合理性を突き詰めた結果としての普遍主義の相対主義への反転verがある。「合理的で自律的な個人が理性的・客観的に対話する」リベラル(モダン)→「合理的で自立的な個人が理性的・主観的に対話する」ポストモダンの軸だ。この場合相対化された at 02/22 08:48

ha_na_bi_ (続)上で「理性的な個人」は残る。この二つのポストモダン、つまり「感情的な動物」と相対的主観的個別的理性的な「人間」、これらが「ポストモダン」や「リベラル」の語でごっちゃにつかわれるため、思想の見取り図が分かりにくくなる。本来の「リベラル」は後者を指す。僕は「サヨク」とカタカナで at 02/22 08:54

ha_na_bi_ (続)多い。前者はやはり「動物」という語が最早一般的。ただ両者をくくる一番わかりやすい言葉は「個人主義」だろう。その中でも前者は芯がなく、後者にはストイシズムがある。ちなみに、「動物」も「人間」のどちらも、保守主義とそれぞれ重なるところがあるため、僕は賛同したり反発したりする。 at 02/22 08:58

ha_na_bi_ 50分くらい前の一連のツィート、「僕は『サヨク』とカタカナで」と「多い」の間に「書くことが」を補ってください。「サヨク」は多分小林よしのりの用語。左翼(経済的なニュアンスが大きい)とは別物だけど、体制へのアンチという心性は一緒。 at 02/22 09:51

ha_na_bi_ 玉虫色の結論というのは悪いものなのか?結論が出るまでに積み重ねられた議論そのものが、自生的秩序の暗黙的なガイドラインになる。議論の中で両極が見え、考え方の多様性が可視化されたなら、後はその場では明確には決めないのもいい。現場の人々に思考させ、体を動かすという点で優れた政治手法だ。 at 02/22 11:22
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2011年02月22日

2011年02月21日のつぶやき

ha_na_bi_ 預金が集まるから国債を買ってるんじゃなくて、国債を買ってるから預金が集まる。90年代以降散々不況だと言われているのに預金額が増え続けているのは何故か?国債を発行しまくっているからだ。国債は最終的に預金に化ける。銀行のマネー無限増殖術、一人勝ちなのだ。企業と銀行はリスクを取れ。 at 02/21 20:38
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2011年02月21日

2011年02月20日のつぶやき

ha_na_bi_ 朝日が偏向を吐露してる。→http://t.co/82GP9lV 「同じことしても自民には厳しく民主には慎重に」という方針であることを、朝日が自ら言うとはw at 02/20 09:23

ha_na_bi_ iPadが欲しい。でもそう考えつつ日本製品でタブレット(電子書籍リーダーではない)が出るのをずっと待っている。アップルや韓国企業やSBと関係ないタブレットが欲しい。その点でガラパゴスもダメで、ソニエリに期待した方がいいのか。詳しくないから分からんけど。 at 02/20 09:32

ha_na_bi_ 電車の中で、推定4歳の子が「お父さん、スマートフォンいらないの?」。「今はいらない。今度買い替えるときにはスマートフォン買うよ」「赤ちゃん生まれたら買うの?」「赤ちゃんが生まれることと携帯を買い替えることは関係ないよ」「赤ちゃんはスマートフォンなら触って楽しめるからいいんだよ」。 at 02/20 09:38

ha_na_bi_ スマートフォンネイティブ・・・。 at 02/20 09:39

ha_na_bi_ 最近テレビや(狭義の)ニコニコ動画を見る時間がほぼ0になり、家では公式ニコ生ばかり見ている。するとニコ生のタイムシフトがたまりまくり。なんでプレミアム会員でも30個しか蓄められないんだろう。視聴期間は一週間でいいから50個にしてもらいたい。 at 02/20 21:28
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2011年02月20日

2011年02月19日のつぶやき

ha_na_bi_ 「無縁社会」特集に対して「有縁社会」の息苦しさを対置させて、「『無縁』は大した問題ではなく、むしろ時代が個人ベースに進むのは不可避だし悪いことではない。社会は縁がなくても個人が生きていけるように設計されるべきだ。」と批判する意見が多い。いいでしょう。確かに縁にはデメリットが(続) at 02/19 21:34

ha_na_bi_ (続)あるし、人との付き合いより楽しいこともある。血縁・地縁や会社や家族に縛られたくないのも分かる。しかし、そのデメリットから何故、「縁がなくても生きて行ける社会」へと飛躍するのだろう。考えるべきは、「血縁地縁会社家族」以外の代替的な、相対的に息苦しくない縁じゃないのか。縁の at 02/19 21:37

ha_na_bi_ (続)デメリットをなくすことと、縁をなくすことは違う。ネット縁はリアル縁に決して代替されないというのが僕の持論だが、リアルの中で今までのものとは違う縁を作ることはいくらでも可能だ。「未婚率が上がり非正規が増える→ベーカム」じゃない。必要なのはカネじゃなくて、家族や会社以外の縁だ。 at 02/19 21:41

ha_na_bi_ 続)といっても僕は個人ベースを称揚してるわけじゃない。人は結婚すべきだし、いや、結婚するかどうかは措いても子供を産むべきだと思っている。もらった命は繋げるのが当たり前。リベラルはこういうときに「開放」という言葉を使ってもらいたいもんだ。子供を産まない=自分で閉じるということ。 at 02/19 22:13

ha_na_bi_ リアルもネットも、友達や家族などのネットワークって自然に作れるものだろうか?僕にはそんなスキル(コミュ力)はない。別に路上ナンパとかの話じゃなくて、会社ではすぐ近くの同僚以外に積極的に話かけないし、mixiでマイミク申請するのもとても勇気はいるし、ツイッターだってリプライにとても at 02/19 22:21

ha_na_bi_ 続)勇気がいる。リベラル的には大賛成の無縁社会とやらで、人は本当に飄々とアイデンティティや自分の価値を確立して、他の人と自分の好むときだけコミュニケーションしていけるのだろうか。そして自分が困ったときに助けてくれる人脈を築けるだろうか。もしくは人の力を制度やアーキテクチャに at 02/19 22:25

ha_na_bi_ 続)置き換えれるだろうか。僕は全く懐疑的だ。縁が信頼できるネットワークとして機能するのは、それが純粋コミュニケーションのためのものではないからだ。社縁には仕事があり、夫婦にはさまざまな役割分担がある。血縁地縁にもかつては構成員に「役割」が割り振られていた。だからこそ、いなければ at 02/19 22:29

ha_na_bi_ 続)いけない存在だった。重要なのは、縁はコミュニケーションのためにあるのではなく、「必要性」「必然性」に基づいていたことだ。コミュニケーションは時空間を共にしていた結果であり、だからこそ身体化されたネットワークになった。縁をなくすとは即ち、コミュニケーションがなくなるというより、 at 02/19 22:33

ha_na_bi_ 続き)「コミュニケーションのためにコミュニケーションする」ことを各人が求められるということなのだ。だからこそコミュ力がない人間にはキツい世界なのだ。コミュ力がなくても一緒に時空間をともにしていたらコミュニケーションは発生してしまう。縁とはコミュニケーション閾値を下げる装置だった。 at 02/19 22:35

ha_na_bi_ 続)代替不可能性は何から生まれるのか。役割や機能からではなく実存からだ。しかし実存のかけがえのなさは、時空間をともにした経験、もしくは両者のコミットメントから生まれる。そしてそのために役割や機能が必要であり、それらを媒介にした人間関係こそ縁だった。縁はコミュニケーションに先立つ。 at 02/19 22:44

ha_na_bi_ 続)しかしコミュニケーション(以下コミュ)が自己目的化され、またツイッターみたいに片方向性が出てくると(ツイッターは双方向性というより、双方向性が片方向性かを選べるメディア)、純粋コミュ力勝負になる。コミュに飽きたら関係を捨てられる。縁はコミュ以前に必要性があるので捨てられない。 at 02/19 22:56

ha_na_bi_ という一連のツイートをしている間に4人くらいにリムーブされたのだった…。また繋がりが…。ブログ代わりに使ってすみません。 at 02/19 23:02

ha_na_bi_ コミュニケーションと必要性・必然性の分離問題を別の形で思考実験してみよう。将来、妊娠期間が「1日」で済んで日帰りで無痛出産できる、身体的には母子ともに副作用なき技術が開発されたとする。このとき、夫婦は今ほどの愛着を子供に対して持てるだろうか。親は「それ」が自分の子供だから at 02/19 23:18

ha_na_bi_ 続)と考えて愛するのでは一般的にない。<身体>が愛しく思ってしまうのだ。それが実存的なものだ。しかし先の思考実験では1年近い妊娠期間をかけた愛情(愛する必然性の感覚)の身体化がスルーされてしまう。そういう対象に人はいきなりコミュできない。そしてコミュ出来ない相手と一緒にいるのは at 02/19 23:25

ha_na_bi_ 続)苦痛だ。最近僕はニコ生の児童虐待関連番組で夜泣き音声(purple crying)を聞いたのだけれど、あんなのが30分続く(これはコミュの一形態だ)と思うとゾッとする。この思考実験で大事なのは時間をかけた縁形成の大切さと、一方でコミュが縁の名の下に継続される怖さの両方。 at 02/19 23:34

ha_na_bi_ さっきの例逆にややこしいかな。まあいいや。ついでに、purple cryingで検索しても日本語ページがあまり出てこない。そこで日本語検索すると7件しか出てこない。先に書いた30分と言うのは一つの目安で、5時間以上続くこともある。http://bit.ly/gEHhcf(英語) at 02/19 23:44
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2011年02月18日

2011年02月17日のつぶやき

ha_na_bi_ メモ。都道府県別の創業100年を超える老舗企業率。上位から京都、島根、新潟、山形、滋賀、福井で3%越え。http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7465.html at 02/17 02:57

ha_na_bi_ 規制緩和するなら、何よりまず男女雇用機会均等法を撤廃すべき。企業の自由な裁量(採用、昇進、賃金体系)に政府が介入し、自生的な労働・結婚市場の秩序を壊してしまった。さまざまなミスマッチの諸悪の根源だ。そういう秩序こそ「自由放任」すべきだったのだ。それでも変わるときは変わるのだから。 at 02/17 10:03

ha_na_bi_ 続)上から平等を押しつけるなといういい典型。以前の男優位採用はイデオロギーだったけれど、大正時代くらいから進んできた職住分離の結果としての自生的秩序。国に「男を採用しろ」と命令されたわけではない。それに対し雇均法は上からの強制的イデオロギー転換。<身体>的にうまくいくわけない。 at 02/17 10:10

ha_na_bi_ 続)恐らく早すぎたのだ。人々や企業のメンタルが十分受け入れ態勢になってからやるべきだった。それはどう判断するか?雇均法なきまま、雇均法的世界が実現されているような状態が、雇均法の適切な制定時期なのだ。雇均法なしにそのような世界が実現しないなら(僕はなくても実現していたと思う)、 at 02/17 10:24

ha_na_bi_ 続)そもそも雇均法は制定されるべきではない。上からの押しつけは、明治期の富国強兵策など一部の例外を除いて基本的にすべきではない。それが自由や平等を求めるものであってもそうだ。理由は端的に、うまくいかないから。不満や怨嗟が募って幸福感が損われる。そしてこのとき革命は大義を得るのだ。 at 02/17 10:34

ha_na_bi_ 革命が許されるのは、既徳権益の打倒とかどうでもいい場合じゃなくて(そんなものは不必要なら自然に消えていく)、端的に人々の<身体>に合わないことを押しつけられたときだ。自由や平等も、打倒される対象なのである。昔は伊右衛門と並んで苦手だったのに、最近また爽健美茶が好きになってきた。 at 02/17 10:47

ha_na_bi_ 分かりやすく言えば、採用制度、賃金体系、会社にとって「どういう人間像を大切にするか自体を自由競争させればいい」。どんな差別もokだし、そもそも採用昇進賃金は「いかに差別するか」の体系である。不合理な差別で業績が落ち込めば市場から淘汰されるし、非人間的差別は社会から淘汰される。 at 02/17 10:56

ha_na_bi_ 先のツイートの「するか自体を自由競争させればいい』。」は、「するか』自体を自由競争させればいい。」です。括弧の位置。で、雇均法とかの規制をなくして制度自体を競争させる。法定と違っていいところは、試行錯誤ができ、失敗したら元に戻せるところだ。ただ、それでも唯一規制すべきは最低賃金。 at 02/17 11:03

ha_na_bi_ 続き)アダム・スミスが『国富論』で最低賃金規制を正当化していることはもっと知られるべきだと思う。(今手元にないけど第9章だった気がする。)労働者の再生産には、生活費としてある程度の賃金が必要だからだけど、実はマルクスの「労働者個人」の再生産のロジックよりずっとラディカルなのだ。 at 02/17 11:20

ha_na_bi_ (続き)スミスは「夫婦と子供二人」(確かにこれが真の再生産だ)が暮らしていける賃金を最低賃金にしたがっている節がある。(ただし妻や子供も働いて少ないながら賃金を得ているという仮定はある。)左翼はもっとこの記述を利用すべき。相手を攻めるには相手が依拠する古典(権威)を利用するのだ。 at 02/17 11:23
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2011年02月17日

2011年02月16日のつぶやき

ha_na_bi_ …という先のリツイートは、凄くイデオロギー的言説なんだよね。今30代〜40代の人に多くて、体の芯から「不自由」や「束縛」を嫌っているのだ。でも、更に下の世代は「それ結構どうでもよくない?」となっている。彼らには有縁の経験がほとんどないし、リベラルイデオロギーを軽蔑すらしている。 at 02/16 11:27

ha_na_bi_ 天皇制支持して中韓批判しつつ、選択的夫婦別姓と外国人参政権反対、というのは分かるんだけど、(たぶん)同じような人が世代間格差を恨んで「逃げ切り世代」を呪い、ベーシックインカムや規制緩和を支持して、都条令や渋谷西武の問題で表現の自由を叫ぶ。有縁社会を嫌う。意味不明。 at 02/16 12:19

ha_na_bi_ そういうのをネトウヨと言うなら、俺も批判したくなる。というか、それってそもそも右翼でも保守でもなく、むしろサヨク心性に近い。真性サヨクとの衝突はサヨク(近代個人主義)の内ゲバなんだろうな。近代個人主義的合理性への懐疑が保守の要諦。そこから不確実性への「正しい」距離感が導かれる。 at 02/16 12:25
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2011年02月16日

2011年02月15日のつぶやき

ha_na_bi_ 日本人は基本的に出る杭を打たない。目立つ人や個性が強い人、新しい考え方は普通に許容される。新奇性に対する好奇心や積極的な受容と、日本に合わせた枠組み変化こそ、日本の特長といえるかもしれない。日本人が打つのは、端的に「自己中さ」である。自己中さを叩くことは偏狭ではなくむしろ(続く) at 02/15 00:35

ha_na_bi_ 続)寛容に繋がる。それは(暗黙の)ルールと言う自由を保障するフィールドの保全作用なのだから。自己中な人間が周囲から叩かれて「日本は出る杭を打つからなあ」とか言ってるのは自己保身で、相手の狭量さに事態の原因を帰する自己慰撫にすぎない。単純に迷惑かつ下らないから叩かれているのに…。 at 02/15 00:39

ha_na_bi_ 入れ替わり方には二つある。グラデーション型と非連続型。両者から出てくるのは線引の問題(「砂山はでこから山か」)とフレームの問題(同時に二つの見方をできないだまし絵)。しかしともに「世界はそんなもんでしょ」というところがある。 at 02/15 09:41

ha_na_bi_ でもそれってフツーにムラ社会の共同幻想。ブラックショールズは根拠なく通用する。幻想に大事なのは第三者の審級に対するシグナリングで、個々人が信じている必要はない。ただ、信じないまま行動してもそのうちベタに信じるようになる。人は信じるから行動するんじゃなく、行動したその内容を信じる。 at 02/15 13:24
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2011年02月15日

2011年02月14日のつぶやき

ha_na_bi_ 面白いwマチズモ叩きの反動を今更やっても10代以上には遅いけど、今から生まれる子供たちには是非勧善懲悪の価値を知ってもらいたい。相対主義なんて後からでもテキトーに学べるのだから。草食の反対は肉食じゃなくて「芯があること」。:マッチョ美学http://mixi.at/a3sIRlm at 02/14 22:31

ha_na_bi_ 現代の日本人は和を重んじるから個人がないんじゃない。個人主義+相対主義のセットを<身体>化しているから逆説的に個人がないのだ。そんなの動物的付和雷同になるに決まってる。個人主義が画一性を生み、「他者に嫌われたくない」という怯えを生じさせる。自由だから足が動かなくなる。 at 02/14 22:49

ha_na_bi_ 昔の日本人の方が良かった。何故なら、今よりもっときちんと個人主義で、心に芯と自由を持ち、だからこそ空気と和を大切にできたから。逆もしかり。空気を守る人間が、空気を壊すことができる。自由闊達と和の精神は同じことだ。(世の中にはSとMがいるんじゃなくて、SMとsmがいるのだ。) at 02/14 22:54
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2011年02月14日

2011年02月13日のつぶやき

ha_na_bi_ 行為、映像、音楽、画像…もろもろの対象物を(リアルタイムで、もしくは蓄積させてから)相互にアルゴリズムで変換し合うのは、もう技術的に難しくない。文化庁メディア芸術祭で大部分の展示物に対して思ったのは、「テクノロジーすげえ」じゃなくて、「これくらいできるでしょうよ」だった。(続く) at 02/13 22:19

ha_na_bi_ 続)恐らく人に足らないのはテクノロジーじゃなくて想像力なのだろう。テーマもいつまで素朴な「越境」やってるんだという感じ。(「クラインの壺」的なものはまだいいけど。)静/動、無機・人工・非生物/有機・自然・生物、視覚・像/聴覚・音…の「差異をグラデーション化しました。いつの間にか at 02/13 22:27

ha_na_bi_ 続)入れ替わります。」なんてのは保守主義的には自明だし、何も新しくない。問題はそのような思考で社会が成り立っているわけではないということで、それに対して連続性や多様性のアピールは殆ど意味をなさないということなのだ。連続なのに現前・厳然として差異があり、多様なのにカテゴリーはある。 at 02/13 22:34

ha_na_bi_ 続)「本当は多様で連続的だよね」なんてみんな知っている。それでも現にある区切りは、何のためにあるのか?ただ為政者が無知で、国民が蒙昧で、過去に生きた人々が偏狭だったからあるのだろうか。そんなはずない。それらはあるべくしてあったのだ。もちろん一部は変えることができ、変えるべきでも at 02/13 22:48

ha_na_bi_ 続)あるかもしれない。しかし、「どこを残しどこを変えるのか」という基準そのものが伝統や慣習に組み込まれていて、「多様性」や「連続性」というキーワードは現実的には何の方針も与えてくれない。芸術は、「境をなくしたがために両者とも死んでしまう」ような想像力を持たない。僕が観たいのは at 02/13 22:53

ha_na_bi_ 続)多分そういうものだ。全てのものはぐにゃぐにゃと入り組んでいて、分解できず、にも拘らず様々なものが認識できる形を持っている。僕が興味を持つのは世界が流動的になる様ではなくて、本来当たり前のように流動的な世界に非流動性(の価値)が持ち込まれる様なのだ。変わることは簡単なのだから。 at 02/13 22:57

ha_na_bi_ 続)といっても、若い頃は「実は石と絵画と生物と音楽って、そんなに違いなくない?」みたいな対象に関する気付き、「主観と客観と内在と鳥瞰って(略)」みたいな認識に関する気付きが大事だから、その役には立つと思うけれど。でも秩序⇔無秩序をもう一通りやったから、芸術はその次に行ってほしい。 at 02/13 23:05
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2011年02月13日

2011年02月12日のつぶやき

ha_na_bi_ 日本の人工国家化を目指す民主らしいね。>中国の建国記念日「国慶節」(10月1日)に配慮し、10月第1週に連休を設けない方針。(省略)日本の休日が中国の行事に左右されるのは本末転倒だといえる。祝日の「意義」までも骨抜きにされる危険性もある。 http://bit.ly/emnyEm at 02/12 00:20

ha_na_bi_ 好きに意見を言っていい場は解放的だけど、「どんなことでもいいから意見を言って」と言われるのは抑圧的だ。人は意見を持っていことにしか意見を持っていない。無意識を言語化させたいなら、そんな直接ルートではなく相手の身体操作を経由した間接ルートを選ぶべきだ。 at 02/12 09:34
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2011年02月12日

2011年02月11日のつぶやき

ha_na_bi_ フェアプレイの観点から八百長を批判する人たちの意見は、無意識的な偏りがある。つまり、「Aフェアプレイ・真剣勝負・試合」と「B八百長・やらせ手加減無気力・興行」を対置させて、後者をCムラ的・閉鎖的・長期的関係が生んだ談合として捉え、没落の原因とみなす考え方だ。彼らが幼稚なのは、(続 at 02/11 12:14

ha_na_bi_ 続)AとBを二律背反とし、C→Bという関係を自明視しているところ。しかし、そもそも「フェア」とはなんだろう。平等や自由に様々な解釈があるように、公正さや公平性にも文化毎に様々な基準があってよい。フェアプレイや真剣さと八百長は本当に両立しないのだろうか。それは法律と慣習を二項対立 at 02/11 12:23

ha_na_bi_ 続)させるのにも似た愚だ。彼らの定義するところの「フェアプレイ」はアメリカからの輸入にすぎなくて、それが日本における「フェアさ」と軋轢を生じるのはむしろ当たり前だ。日本においては、真剣勝負(ガチンコ)と演技(美学)は矛盾しない。談合や八百長をしていて「フェアプレイ」していなければ at 02/11 12:27

ha_na_bi_ スポーツの世界から、市場からはじき出されるなんてのは、そこがアメリカ的ルールで動いていることの言い換えにすぎない。日本国内では日本的ルールや美学でいいじゃないか。そして更に外に出たときも、世界(=アメリカ)のルールに合わせるのではなくそれを変えようという気概があってもいい。 at 02/11 12:31

ha_na_bi_ 続)ちなみに、日本的ルールとアメリカ的ルールも分かりやすくいっているだけで二項対立ではない。アメリカ的な意味での自由・フェア・多様性というものも、日本的ルールの中に組み込まれている。例えばムラ社会の話し合いでは構成員が年齢を超えて自由に意見を言うことが可能だった。その上で(続く) at 02/11 12:35

ha_na_bi_ 続)年長者に対する尊敬もあった。僕がムラ社会(や日本的文化)に見出すのは、秩序と自由と公平と多様性が一体となった姿だ。それらは言うならば生き方や美学や「そういうもの」として、ぼんやりと一体化していた。分かれていなかった。アメリカ的「フェア・真剣」でなくても、きちんと熱は宿るのだ。 at 02/11 12:39

ha_na_bi_ いいじゃん別に。もっと教育は適当でいいよ。教師がやりたいようにやればいい。教育は家庭とは別の空間・ロジックを持ち込むためにあるんだから、家庭側は「家とは違うこと」を認めるべき。:時間オーバーの給食、布に載せ食べさせる http://mixi.at/a3pXjln at 02/11 12:50

ha_na_bi_ 続)というか学校は、「自分が丁重に、お客様として扱われない存在」であることを学習する場。仮に学校制度自体に市場原理を持ち込むことまでは何とか許容できても、教育の現場(具体的な授業・給食・掃除…)では、つまり生徒と教師の関係においては、生徒をお客様扱いすべきじゃない。対等でもない。 at 02/11 12:54

ha_na_bi_ 続)という一般論の上でなら、「やりすぎ」だという意見も分かる。去年の10月から10回以上とか、別の問題があるような気がするし。「配慮すべきは子供であって、先生ではない」と常日頃思っていることを言いたいがために、この記事を利用した感もある。ちょっと反省。 at 02/11 13:03

ha_na_bi_ 東洋医学で「西洋医学における精神医学」がどう扱われてるか俄然興味が出てきた。おうち帰ったら調べてみよう。 at 02/11 14:25

ha_na_bi_ 先に「配慮すべきは子供であって、先生ではない」ってつぶやいたけど、あれは「子供が先生の気持ちを汲むように慮るべきなのであって、その逆ではない」という意味です。全ての師弟関係がそうであるように、先生は「正しい」存在だし(これはロジックではなく「事実」)、「底」を見せてはならない。 at 02/11 21:45

ha_na_bi_ あえて「自分が正しいわけではない」という真の事実を見せる技術もあるのだけれど、それはいわば「高等テク」であって、最初から「何が正しいか分からない」様を見せると権威が保てない。教師に必要なのは内容よりも権威であって、反発の対象となる「何か」だ。権威なき教師は反発されずに無視される。 at 02/11 21:55
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2011年02月11日

2011年02月10日のつぶやき

ha_na_bi_ 単純労働が海外にアウトソーシングされるつつある中、今後日本国内で伸びる産業は、海外で代替不可能なクリエイティブ職(アイデア創出、ブランディング、マーケティング…)などではない。クリエイティビティーなんてすぐに追いつかれて、いくらでも代替されるようになる。恐らく、全く逆なのだ。(続 at 02/10 00:51

ha_na_bi_ 続)最後まで残るのは、むしろ「肉体労働」なのである。例えば床屋である。代替できるが、消費者がいるその場でしかできないもの。工場員はアウトソーシングできても、消費者は日本国内にいるのだから。グローバリズムとインターネットが時空間と人の属性を超える手段だとしたら、それでもなお残る(続 at 02/10 00:55

ha_na_bi_ 続)残る仕事は、時空間を原理的に超ええない「肉体労働」なのだ。情報業は低廉化し、パイも満ち、だんだん利潤が稼げなくなる。しかし地に足が着き、実際に顧客と触れ合い日本語でコミュニケーションする仕事はなくならないし利潤も残る。僕はこのローカリズム隆盛を心待ちにしているのだ。(続 at 02/10 00:59

ha_na_bi_ 続)農業も企業による農地集約と効率的営業と同時に(もしかしたらそれ以上に)、ローカルに作って売る地産地消が盛んになるだろう。このように考えると、今後の破壊的技術が何か見えてくる。それはインターネットと同じレベルの世界変革を引き起こす。そう、肉体そのものの瞬間的な移動である。(続 at 02/10 01:01

ha_na_bi_ 続)もし、情報と同じように肉体まで瞬間的に移動できたら、そのときは肉体労働そのものがアウトソーシングされる。実際の肉体が移動できる必要はない。肉体を情報化できさえすれば、情報は情報技術で送れるのだから、実質的には肉体を移動できたことになる。これは現在医療分野で実用化されつつある。 at 02/10 01:03

ha_na_bi_ 続)例は遠隔手術だ。手術者は患者と同じ空間にいる必要がない。これは先端医療だが、コモディティ化すれば、マッサージも、性風俗も、床屋も、介護も、遠隔で肉体労働できるようになりうる。このとき「今ここにあるこの肉体」という概念の優位性は消えてしまう。それでもまだ残るものについては今度。 at 02/10 01:07

ha_na_bi_ マジかと思って調べたら、これ@nanakomeさんのネタらしい! QT @kasumi0313: これひどい!RT @rongemoruchin2: い、いいのか?マンナン◯イフよ!?…RT @nanakome:とうとう、こんな表記に…… http://bit.ly/fb70r1 at 02/10 20:40

ha_na_bi_ ニコ生、ustream+ツイッター中継、テレビ+2ch実況はどれもまったく異なる体験。ツイッターの良さの一つ(僕が考える最大の良さ)は、「ページを遷移しなくて済むこと」「そこに全てが集約されること」なのだけれど(詳しくは省略)、コンテンツに対するリアルタイムな反応と言う点では(続 at 02/10 22:21

ha_na_bi_ 続)ニコ生に勝てない。コンテンツにコメントがベタっと重なるニコ生は一種の拡張現実(AR)であるのに対して、目を画面から離す必要があるテレビ+2ch実況、画面遷移か二窓が必要なテレビ+ツイッターハッシュタグ実況、同じ画面内でも視線をコンテンツから少しずらす必要があるustream+ at 02/10 22:28

ha_na_bi_ あ、「画面遷移か二窓が必要なテレビ+ツイッターハッシュタグ実況」は、「画面遷移か二窓が必要なコンテンツ+ツイッターハッシュタグ実況」の間違い。 at 02/10 22:30

ha_na_bi_ 続)ツイッター(ustreamのサイトで右側につぶやきが流れている状況)は、どれも全て現実+疑似現実(VR)の組み合わせにすぎない。ARと「現実+VR」は全然違う。今後この差は広がり続けるだろう。僕がツイッターではなくニコ生やARに期待するのは、前者は現実を運動的に変革するが、 at 02/10 22:34

ha_na_bi_ 続)後者は現実の定義自体を変えるからだ。それは眼鏡のようなものだ。裸眼で見える世界と眼鏡をかけて見える世界、どちらが「本物」かを問うことはナンセンスだけれど、少なくとも眼鏡は世界の見え方を物理的に(←重要)変えた。もしくは付け加えた。ツイッターは思考を効率的に伝播するが、 at 02/10 22:41

ha_na_bi_ 続)ニコ生は思考を現実に張り付けることで、思考そのものを現実のカテゴリーに含めてしまう。思考は可視化され、物理的現実と区別されない。以前も書いた内容だが、今日モーニング宇宙兄弟を読んでまた書きたくなったw道順がカーナビに映ってるのがツイッター実況、フロントガラスに映るのがニコ生。 at 02/10 22:54
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2011年02月10日

2011年02月09日のつぶやき

ha_na_bi_ 「民主主義2.0」の、短いけど網羅的ないいまとめ→http://ow.ly/3T4hA。東浩紀の一般意思2.0(集合的無意識の可視化)、鈴木健の分人民主主義divicracy(伝播投資貨幣PICSYも重要)、濱野智史のキャラクラシーといった語を押さえておくと「知ってる奴」ぶれる! at 02/09 21:54

ha_na_bi_ まあ、先のつぶやきが数日前の「バクマン。」に関するつぶやきととても関わっている。つまり、ITで国民の無意識を吸い上げて出てくる意見と、プロの熟議による意見は違う。どちらがいいのか、そしてどちらを取べきかといった規範論は、その両者の区別以前の慣習的な問題。ただ現在は前者が(続く) at 02/09 22:25

ha_na_bi_ (続き)情報技術で大々的に可能になってしまっただけで、正直「民主主義2.0」自体に新しい想像力なんてない気がする。保守主義やポモ思想では、アイデンティティーの多層性も無意識的または共同主観的なイメージもありふれた考え方。ちろん新しくないからといって決着がついてるわけではないけど。 at 02/09 22:32

ha_na_bi_ 少子化に経済的余裕なんて関係ない。関係あることにしたい人は、大体が認知的不協和。単純に日本人が世界一個人主義なだけ。子供を産み育てることに社会的に価値があることを頭では理解しているが、自分は欲しくないのだ。:「子供ほしい」、日本最下位 http://mixi.at/a3nnW6f at 02/09 23:11
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2011年02月09日

2011年02月08日のつぶやき

ha_na_bi_ 続)細切れ可能性が作品と編集の関係を変えるということだ。例えばデジタルの本は1章・1節・1頁・1行単位で販売可能になる。パッケージという概念が壊れ、販売されたモジュールを組み合わせる権利そのものが販売される。しかし編集は「全体」を見て行うものだ。言葉にしにくいけど、例えば全体性 at 02/08 00:05

ha_na_bi_ 続)とか継続したコミットメントといった概念はどこに行くのだろう。う〜ん、ぼんやりしてるな。何にせよ僕は根っこのところで、編集と作者の個人的でウェットな信頼関係というものを信頼していて、それはもう「不可分な個性」で、集合知で置き換え不可能なんじゃないか、と思いたいんだろうな。 at 02/08 00:18

ha_na_bi_ 続)別に言うなら、集合知で「均されないこと」の価値ってのがあるんだと思う。その場合、編集は中立にする手段じゃなくて、むしろ偏らせる手段になる(これは本来の編集と逆の作用なのだろうか)。ボランティアでも片手間でもない、継続的なコミットメントは、やはりある種の強度が宿ると思われる。 at 02/08 00:23

ha_na_bi_ あ、あと中抜きと言っても生産での中抜きと消費での中抜きがある。コンテンツの質を上げる「編集」の話は主に前者に関わり、この機能は先のように衰えるかもしれない。(ちなみに、編集・出版業務で上流をコントロールすれば実質的に下流=消費もコントロールしている。)一方、出来上がった(続く) at 02/08 00:53

ha_na_bi_ (続き)情報の選抜に関わる後者=アグリゲーションやキュレーション(http://ow.ly/3RH5i)は、コンテンツ流通量が増えるにつれてますます重要になる。といってもこれも、amazonの星やグーグル検索アルゴリズムのように重要度をアーキテクチャで置き換えることができるから、 at 02/08 00:56

ha_na_bi_ (続き)「人間による編集も情報選択も不要で、プラットフォームと評価のランキング表示だけあればいい」という意見もある。ただ、アルゴリズムは解析されて逆手に取られるのが常だし自演が起こるため(グーグル検索でスパムサイトが上に来たり)、最近は「〜の言うこと(薦める本)なら信じる」という at 02/08 00:59

ha_na_bi_ (続き)人への回帰が見られることから、やはり「人」は残るだろう。一方で、「キュレーションが入らないこと」を売りにするメディアも出てくる。例えばリアルタイムでコメントがコンテンツに重ねて表示されるニコ生などで、コメントは選択を経ずに垂れ流しにされる。様々なメディアの生態系が(続く) at 02/08 01:03

ha_na_bi_ できるよ、という優等生的結論に落ち着くのか…。まあ個人的には、編集だろうがキュレーターだろうが、間に入る人や組織の価値が最後まで残ればいいと思っているし、残ると信じている。しかし残るとしても、「組織」ではなくて「人」が前景化してくるのかもしれない。それはそれで別の問題がありそう。 at 02/08 01:20
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2011年02月08日

2011年02月07日のつぶやき

ha_na_bi_ 最近の「バクマン。」が面白い。今後のメディア界の大テーマの一つは、「編集という職業は今後どうなるのか」。それを連載漫画の中で扱うのだからすごい。テーマに対する二つのスタンスは、@今後は個人と個人が直接に、もしくはプラットフォームを介して繋がるので、中間集団は中抜きされ、(続く) at 02/07 23:42

ha_na_bi_ 続)編集という機能もなくなってしまうし、そもそも無限の広さを持つネット世界にはいくらでもコンテンツがおけるので有限な時間・空間という枠内にコンテンツを収める編集作業自体いらなくなる。また理念としても編集バイアスはなくすべきであるし、どうしても質のために必要なら編集そのものを(続く at 02/07 23:45

ha_na_bi_ 続)ネットでCGM的にやっちゃえばいい Aいやいや、そうはいっても仕事として特別に訓練された編集者の存在は質の担保として必要だし、膨大な情報やコンテンツを圧縮するのは、サプライ側の例えば時間制限がなくなっても消費者が持つ時間が有限であることを考えると必要。ボランティアは気紛れで、 at 02/07 23:48

ha_na_bi_ 続)動物的だから、文化の「強度」を保つためには「大衆受けしないもの」を掬い取るプロが必要。 流れとしては@もAも拮抗してて、折衷的な、「個人でやる人はやるし、編集を通す人は通す、生産も消費も間に人や組織をかませるかどかは現実的に選択可能になる」、というのがメジャーな意見。 at 02/07 23:53

ha_na_bi_ 続)僕は基本A寄りなのだけれど、CGMも集合知も個人的な編集者による編集も、全てコンテンツに対する別の「いじり方」にすぎない。例えば、ある漫画原稿に対して、「一人の編集者の手直し」と「ネットで公開して漫画に詳しい50人にツッコミをいれてもらう」のとどちらが面白くなるだろうか。 at 02/07 23:56

ha_na_bi_ 続)「バクマン。」の軽いネタばらしになって申し訳ないけれど、ストーリーがどう落ち着くのかとても興味がある。どちらが勝とうが、いくつかの変化が起きるのは避けられない。つまり、プロフェッショナリズムは集合知とは違った強みを獲得しなくてはならないということ、コンテンツのデジタル化による at 02/07 23:58
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2011年02月07日

2011年02月06日のつぶやき

ha_na_bi_ 続)を支持する。ただし、悪い八百長、つまり、ただカネ目的で、客を楽しませず力士の金銭的利得だけに誘因が還元されるような八百長は僕も肯定しない。僕はこれらのいろいろな八百長の割合が分からないのだけれど、少なくとも「八百長があった」だけでモラル上の「悪」だとは断言したくない。というか at 02/06 00:02

ha_na_bi_ 続)僕は八百長が美徳になることすらあると思っている。都条例とか西武渋谷サブカル展の問題でじゃなく、こういうときにこそ「潔癖症批判」は使うべきだと思う。ガチンコ勝負とは別のロジックが存在してもいいじゃないか。「口には出せないが皆がぼんやり知っていること」があっていいじゃないか。 at 02/06 00:07

ha_na_bi_ まあ、僕は八百長も賭博も悪いことだとは思わないし、暴力組織とのつながりも悪いことだと思ってないから、感性が最初から皆と違うのかもしれない。暴力団関係者をいい席(?)に並ばせちゃいけないとか意味わからん。(ただ僕が愛好するのは昔のヤクザ(のイメージ)。現在の変質についてはまた。) at 02/06 00:42

ha_na_bi_ 永田洋子は死んだけれど、彼女の心性がノスタルジー化されるほど事件から時が経ったわけではない。山岳ベースで最初の女性被害者が標的にされた理由は、彼女が「髪をいじっていたこと」だと言われている。資本主義を利用し(利用され)てかわいく女らしく振る舞うことは、革命の理念から否定される(続 at 02/06 09:36

ha_na_bi_ 続)べきたが(結婚も同じように否定された)、同時に女性革命家にとっては表明できぬ欲望を駆り立てるものだった。ここから革命的暴力を抜けば(ラディカル・)フェミニズムに一直線だし、フェミニズム内部での反論(リベラル・フェミニズム)や保守反動を経ていまだに女性の中で未解決問題だ。 at 02/06 09:43

ha_na_bi_ ・・・というのはよく言われることだけれど、最近は雑誌のユニセクシュアル化が成功したモーニングが青年誌で一人勝している(と巷で分析されている)。つまり皮肉なことに、性差の乗り越えは「少子下でも部数のばしたい、だったら女性も読める雑誌にしようぜ!」みたいな資本主義ロジックの内側で(続 at 02/06 10:13

ha_na_bi_ 続)実現したことになる。もちろんフェミニズム的なものが理念を導入してムーブメントを作り出したことは否定しない。しかし、その他の様々な理念と同様、「食われてしまった」。理念そのものを商品化する力を資本主義は持っていて、資本主義そのものを止めることはそういった理念では困難なのだ。 at 02/06 10:20
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